落書き問題

岐阜市立女子短期大学の学生や京都産業大学の学生がイタリアに行って、キリスト教の教会に落書きをして問題になっている。
岐阜市立女子短期大学のホームページには謝罪文*1まで掲載されている。謝罪文には、「愚行に及び」とか「重大な過ち」などという文言が見える。京都産業大学にもお詫びの文章があがっている*2。学生は停学になってしまったらしい。
ネット上に転がっている写真をみていると、これらの学生だけでなく、いろいろな日本人も落書きをしているらしい。日本人だけかというとそうでもなくて、欧米人もたくさん落書きをしているようだ。
さて、日本では寺に落書きをするのは普通のことである。庶民信仰の対象の寺院ならば千社札がべたべた貼られた寺は珍しくはない。千社札だけでなく、古い寺なら、中世以来の落書きがあるところもめずらしくない。その落書きを調査して書かれた論文もある。
近世以降の落書きなら、私が以前いったことのある伊勢のなんとか寺の本堂などは、落書きがないところを探すのが難しいほど夥しい落書きで埋め尽くされていた。
室町末成立と言われている「中山寺縁起」(西国24番札所)には、落書きをするな、という記述があるが、これはみんな落書きをしていたということに他ならない。
さて、件の話は外国のことなので、イタリアではキリスト教の教会に落書きをするのが一般的か否かということになろうが、外国人の落書きも多く見受けられるところをみると日本とそう状況が違うようにも思われない。有名な寺院で日本人が落書きをしたからといってことさら責め立てるのはいかがなものだろうか。
アンコールワットには近世初頭の日本人の落書きがあるというが、資料として尊重されてはいても、不謹慎であると過去の日本人を責め立てる話は聞いたことはない。
数百年前の落書きはよくて今の落書きは悪いということもなかろう。今の落書きも数百年後には研究の対象になっていてもおかしくはない。
寺や教会は、落書きはしてはいけないけれども、してもそんなに悪くはないところなのではないだろうか。