「規範」の必要性

大学というのは、いかに規範を崩していけるか、というところが唯一の存在意義であると信じているので、「規範的」なるものに対してはつねに斜に構えるという態度が骨の髄まで染みついている。
しかし、すくなくとも中学というところは、あるていどの「規範」がないといけない感じだ。
というか、規範を身につけるから規範を崩していけるかというところに価値を見いだせるのであって、規範のないところから規範を崩すということはできないのではないかという感じがする。

お仕事、採点

午後からひとりでお仕事。
この期に及んでえらいもんを発見して、もう一人の先生に電話。「これはあきませんな。明日中に考えましょう。」ということになる。
家に帰って、採点。
訓点の規則というのはそんなに難しいのかなぁ?」と疑問を抱いてしまったが、難しいんだろう。
問題が難しいのかなぁ。
明日中にいま抱えている分の採点を終わらせたい。
むりかなぁ。
絶対むりだろうなぁ。

なんとかなるか

期末考査がはじまり、試験1を作成して、採点して(まだいっこもしてないけど)、ひみつの業務1、2をして、試験2を作成したところ。
今日は、ひみつの業務1の続きがある。
これがおわれば、あとは採点だけ(のはず)だ。
死ぬかと思ったけれども、なんとか死なずにすんだ感じだ。

「程度」が分かってきた

定期考査が一個完成したのでかなり気が楽になった。
ある案件について、ある先生と話をしてだいぶん決める。話の中で、どの程度までやるべきで、どの程度からはやってもしかたないのかが分かってきた。
このへんが分かると気分的に楽だ。
論文みたいに、行き着くところまでどこまでも行くけどとりあえずここで止まっとく、みたいな感じとは全然違う。

問題を区分して一つ一つこなしていく

今日は一日頭の左上の辺りが痛い。
やらなければならないことがどーっとある。締切も近接している。
そういうことが山積しているだけで憂鬱になって死にそうなのだが、死んでしまう勇気もない。
とにかくやらなければならないことを書き出して、優先順位をつけて、ひとつひとつつぶしていくしか精神の安定を得る方法はない、はずだ。

大阪はどうなるのかな

私に関する分野でよくなるという実感を得る政策はでないだろうな。
もっとこうなんというか、弱い者が「あぁ。だめだめやけど、生きててもええんやなぁ。」と思えるような社会にならんかなぁ。