「きちがいじみた」こだわり

まだ院生になったばかりの頃は、世俗の感覚が抜けきっていないから、「全部見る」とか「全部集める」とか「全部行く」そういうことができない。
もちろん、「全部」見たり、集めたり、行ったり、したからといってよい結論に達し得るわけではない。しかし、論文の最後の一行が何で担保されているかというと、やはり「全部」を(少なくとも目指してある程度まで)達成したというところで担保されている。
こういう「きちがいじみた」量へのこだわりが、普通にならないといけない。
「あれ見た?」と聞かれて、「見てません。」では話にならんわけである。